卒塔婆とは

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卒塔婆のおはなし

卒塔婆とは1

1.卒塔婆の歴史

 追善供養に欠かせない道具として長く受け継がれてきた卒塔婆には、時代とともに形状や役割が変化してきた奥深い経緯があります。今回は、そんな卒塔婆の歴史についてご紹介します。

卒塔婆の起源は?

 卒塔婆という言葉の由来は、サンスクリット語の「ストゥーパ」だといわれます。仏教はもともとインドで生まれた宗教なので、卒塔婆も発祥はインドなんですね。
 仏教の開祖・シャカが入滅すると、その遺骨は8つの部族に分け与えられました。このとき骨を納めるために建てられた塔が「ストゥーパ」です。
ストゥーパは有力部族の首長の遺骨を納めるお墓としても使われました。五重塔や三重塔など、立派な高層建築物のストゥーパもあったといわれます。
そんなストゥーパも、中国、そして日本へと渡ってきました。中国では「卒塔婆」という漢字があてられ、日本へもそのまま輸入。現在でもその言葉はしっかりと受け継がれています。

平安時代には追善供養に使われる

 日本に仏教が渡ってきたのは、聖徳太子の時代の頃。仏教思想とともに、仏舎利や経典などを納める木塔の建立もはじまります。鎌倉時代になると、材料が木から石に代わって石塔が多く建立されるようになりました。
 もともと、卒塔婆は死者を弔う墓所としての役割がありましたが、時代とともにその性質も異なり、直接供養の墓というより、補助的な意味合いの強い追善供養の役割を持つようになります。早くも平安時代の終わり頃には、後一条天皇の遺体が眠る墓の近くに石の卒塔婆が建てられたという記録が残っています。
 平安時代の後期といえば、旱魃や地震、疫病の流行、大飢饉、あるいは僧侶や武士の反乱など、世の中が混迷を深めた時代。世の中が殺伐としていく中、厭世観や末法思想が広まり、「死後の世界はせめて安らかに眠りたい」という人々の願いは切実でした。追善供養として卒塔婆が使われるようになったのも、そうした時代背景と無縁ではないでしょう。

簡素化していった卒塔婆

 時代とともに形も役割も変化していった卒塔婆ですが、とくに日本においての卒塔婆は、時代とともにどんどん簡素化・スリム化していったという特徴が見られます。
 卒塔婆はもともと有力者を弔う墓塔として受け継がれてきましたが、その規模は三重塔や五重塔という豪華な建物も少なくありませんでした。しかし、墓が必要なのは王族や権力者だけではありません。最下層で生活する庶民も同じです。ところが、彼らには豪華な建物を建築する経済力は持っていませんので、粗末な石の塔で我慢するしかなかったのです。そのような事情から、庶民の間では人体を埋葬できる程度の石墓が定着していきました。
簡素化した卒塔婆は角塔婆から板塔婆となり、現在では卒塔婆といえばこの板塔婆であることはみなさんご存じの通りです。


 

2.卒塔婆の形にはどんな意味があるのか

 お墓の建立と卒塔婆をセットにし、故人の供養に努めている人も多いでしょう。ところで、木材で作られた卒塔婆の形にはどんな意味があるのかご存じでしょうか。大切な個人の供養に用いられる卒塔婆ですので、その形の意味もしっかり理解しておきたいところですよね。今回は、そんな卒塔婆の形についてご説明します。

卒塔婆の原型は「五輪塔」

 卒塔婆は仏教の生まれ故郷であるインドが発祥で、その語源もサンスクリット語の「ストゥーパ」から来ています。ストゥーパはもともとお釈迦様の遺骨を納めた墓塔で、仏教を信奉する有力部族の首長のお墓としても用いられてきました。今でこそ卒塔婆は木製の簡素なものですが、古代では三重塔や五重塔のような大規模建築物も珍しくありませんでした。
 五重塔は、やがて「五輪塔」と呼ばれるようになります。この五輪塔の形状には古代インドの宇宙観が反映されていますが、今の卒塔婆の形状はこの五輪塔が原型であるといわれます。

五輪塔の意味と形

 五輪塔は、上から宝珠型の「空輪」、半円型の「風輪」、台型の「火輪」、球型「水輪」、長方形の「地輪」というように、5つの形によって構成されています。古代インドにおいて、宇宙は5つの元素(空・風・火・水・地)によって構成されると考えられてきました。人間の世界にもこの真理が生かされた結果、五輪塔の造成にもその哲学が反映されるようになりました。現代の卒塔婆も、よく見ると五輪塔の形状をモチーフにして作られたものであることが分かります。
 卒塔婆の表には、仏教の宇宙観をモチーフにした「梵字」が描かれています。現代の卒塔婆においても、古代仏教の考えはしっかり受け継がれているのですね。

その形にも意味がある

 日本において、五輪塔による供養は、平安時代の中頃、密教を信じる宗派の中で生まれたという説もあります。あの小さな木製の卒塔婆の形には、壮大なスケールの宇宙観がモチーフになっていることを考えれば、とても興味深くなりますね。
 卒塔婆は現在も多くの墓地や霊園などで目にしますが、その形にもしっかりとした意味があるということがお分かりいただけたと思います。こうした意味を理解することで、それまで以上に深い供養ができるかもしれません。




 

3.卒塔婆に書いてある文字の意味

 卒塔婆には、表面にも裏面にも文字が書かれています。その中でもとくに目を引くのが、「梵字」と呼ばれるちょっと不思議な文字。これには一体どんな意味があるのでしょうか? 今回は、卒塔婆に書き記される梵字の意味や考えについてご説明します。とても神秘的で奥深い意味が隠されていますので、これを知れば供養に対する考えも変わるかもしれませんよ。

卒塔婆に書かれる梵字の意味

 卒塔婆の表面には5つの梵字が書き記されます。読み方は、上から順番に「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」となります。これらには、それぞれ意味や色、方角に当てはめた如来が決められています。
  キャ
元素
宝珠形 半月形 三角形 円形 方形
如来 阿閦如来 不空成就如来 宝生如来 阿弥陀如来 大日如来
それぞれの梵字に当てはめられた如来様の考えは絶対ではありません。あくまでひとつの考えとして参考にしてください。ちなみに密教では、「キャ=大日如来」「カ=宝幢如来」「ラ=開敷華王」「バ=無量寿」「ア=天鼓雷音」の五仏と解釈する考えもあります。また、書かれる文字やそれぞれの解釈の仕方には、宗派や地域性などで違いが見られることだけ頭に入れておきましょう。

梵字以外の文字

 卒塔婆には、まず上に5つの梵字が並び、その下に「種子」「戒名」「回忌」「施主名」を書き記します。それぞれの意味は以下の通りです。
  • 種子…仏様の種という意味。通常は十三仏のどれかが当てられます
  • 戒名…受戒し、仏門に入った人の名前。つまり故人の死後の名称です
  • 回忌…「七回忌」「十三回忌」など、定められた供養の回忌です
  • 施主名…卒塔婆を立てた人の名前。最近では立てた年月日も書き添えることもあります
 また、裏面にはさまざまな菩薩名や真言(お参りする際唱える言葉)の一部を梵字で表します。年回忌が済むと、回忌のところは盂蘭盆会(うらぼんえ)や彼岸会など記されます。

「梵」の意味は?

 梵字の「梵」には、インドのバラモン教における最高原理という意味があります。「なぜ仏教ではなくバラモン教?」と思われるかもしれません。実は、その後「梵」という文字を神格化する考えが生まれ、それが仏教に取り入れられたといいます。古代インドでは、世界の創造主・ブラフマンを神格化したものを「梵天」といいますが、この仏様は仏教の守護神としても存在します。
 そのほかにも梵という字には、「洗い清める」「神聖なもの」といった意味があります。この世のあらゆる不浄や災厄を取り除き、安らぎと幸福を授けるという思いが込められているのですね。

4.卒塔婆はいつどこに建てるのか

 お盆やお彼岸といえばお墓参りのシーズンですが、その時期の墓地の風景を見ると、「あそこの卒塔婆、何だか新しくなったな」と思うことがあります。この卒塔婆ですが、どのタイミングで建てたり、建て替えたりするものでしょうか? また、適切な場所というものはあるのでしょうか? 今回は、卒塔婆を建てるにふさわしい時期と場所について説明します。

卒塔婆を建てる場所と時期

 卒塔婆を建てるタイミングですが、厳密な決まりがあるわけではありません。しかし、基本的位には供養の節目に建てるのが習わしです。その供養の時期ですが、一般的には以下のようなタイミングです。
  • 法要(49日、1回忌、3回忌、7回忌など)
  • 祥月命日(故人の亡くなった月日)
  • 盂蘭盆会や彼岸会、施餓鬼会(せがきえ)など、お盆やお彼岸で実施される法要
 卒塔婆を建てる場所を、「塔婆立て」といいます。これも特別な決まりはありませんが、基本的に墓石のある敷地内の空いたスペースに建てることになるでしょう。

卒塔婆はどこに依頼する?

 追善供養に卒塔婆を希望する場合、事前に菩提寺や墓地・霊園の管理者に連絡しておけば、お寺側が用意してくれるので、法要当日に受け取ることができます。いつ・どのタイミングで依頼するかはお寺や霊園によって異なるので、事前に確認しておくことが大切ですね。
 古くなった卒塔婆は見た目も良くなく、風などに煽られて倒れる危険性もありますので、頃合いを見て処分することになります。お寺側にお焚きあげを頼む場合もありますが、普通にゴミとして燃やしてしまっても構いません。

そもそも、なぜ卒塔婆を建てる?

 もともと、卒塔婆はお釈迦様の遺骨を納める建物として造られたものです。現在の卒塔婆は故人を弔う追善供養の意味で建てられます。
追善供養とは、生きている人が亡くなられた人のために行う供養です。その名の通り、「善を追う」つまり生きている人が積んだ善が故人の善行にもなる、という考えのもとで供養が実施されます。ちなみに、浄土真宗では卒塔婆による供養は行われません。
 仏教では、卒塔婆を建てること自体に善行の意味があり、それは死者を弔う年回忌や、お墓参りのお盆・お彼岸などで用意する必要があります。ただ卒塔婆を準備するだけでなく、その意味もくみ取ったうえで供養したいですね。

 

5.古くなった卒塔婆はどうするのか

 追善供養に大切な役割を果たしてくれる卒塔婆ですが、お墓と違い、永遠に残るものではありません。次の法事のタイミングで取り替えるほか、古くなって処分するケースもあります。では、どのようにして処分すれば良いのでしょうか? 今回は、気になる卒塔婆の処分方法について説明します。

卒塔婆はなぜ処分する?

 卒塔婆とは本来、7回忌や13回忌といった法要のため建てられるものです。塔婆の功徳は1日のみとされ、卒塔婆も法要が済めばその役割を終えます。その考えから、法事を終えた段階で処分するというのが本来のあり方です。
 しかし、実際には次の日に処分されるというのは稀で、多くが次回の法事まで残されたままとなっています。とはいえ、古くなって朽ちた卒塔婆をいつまでも放置するわけにはいきません。そのままにしておくと、風などに飛ばされて通行人がケガをする事態も予想されます。見た目にも痛んできて、色あせてきたな、と思ったら、きちんと処分するようにしましょう。

卒塔婆の処分方法

 卒塔婆の処分方法にはいろいろな考えがあります。仏様に関わるものですので、そう粗末に扱うわけにもいきませんよね。そのため、お寺に頼んでお焚きあげしてもらうという人もいます。しかし、墓地に他家の卒塔婆も数多く存在し、そのすべてをお寺側が処分するとなると、かなりの負担を要するでしょう。なるべくお寺に迷惑をかけないために自分で処分する、という考えもあります。
 自分で処分するとなったら、そのままゴミとして出す以外に方法はありません。「そんなことをして大丈夫なの?」と思われるかもしれませんが、たとえ捨てても大切に供養したという気持ちはしっかり残されています。形にこだわるのではなく、功徳があれば大丈夫、というのが仏教の教えです。
ただ、これもお寺や地域によってさまざまな考えがありますので、不安であればほかの檀家さんがどう処分しているのか、情報を集めたうえで判断するのもいいでしょう。

処分するときも感謝の気持ちを忘れずに

 卒塔婆のおかげで、大切な故人があの世で安らかに眠っていると思えば、そう簡単に捨てられるものではありませんよね。とてもありがたいものだけに、その処分に困るという人もいるかと思います。実際にはごく普通に処分されているケースが多いのですが、そのときでもただ単に捨てるだけでなく、感謝の気持ちを添えて、丁重に処分する姿勢を心がけたいですね。

6.卒塔婆料について

 故人の供養を願って立てる卒塔婆。お寺の住職さんに頼んで梵字や経文を書いてもらうわけですが、これにはどれくらいの費用がかかるのでしょうか? また、封筒の書き方も気になりますよね。今回は、卒塔婆を立てる際、ぜひ知っておきたい料金の相場や封筒の書き方についてご説明します。

卒塔婆料はどれくらい? 相場は?

 卒塔婆をお願いした際に支払う料金は、通常「塔婆料」といいます。これは、卒塔婆を立て、供養をしてくれるお寺側に支払う料金です。
この塔婆料ですが、卒塔婆1本につきいくら、と明確に決まっているわけではありません。寺院がそれぞれ設定する料金の基準に従って支払うことになるでしょう。相場は、およそ1本3,000円〜5,000円とされます。高くても10,000円前後と見ていいでしょう。
 塔婆料の支払いに関しては、基本的に施主が責任を持って行うことになります。卒塔婆を立てるとなったら、お寺側に事前に料金の確認をしておくと良いですね。また、複数の故人の卒塔婆を立てることもありますので、その際は全員分のリストを作成し、早めにお寺に申し込んでおくようにしてください。

卒塔婆料はどうやって包む?

 49日や七回忌などの法事を執り行った際、御住職に御布施を出すことになるかと思います。卒塔婆にかかる塔婆料は、お布施とは別に包みますのでその点は注意してください。
 塔婆料は文房具屋さんで売っているような奉書白封筒で構いません。ただし、水引きのない白い封筒を選ぶようにしてください。
表の上部に、「御卒塔婆料」もしくは「御塔婆料」と書き、その下に氏名を書きます。塔婆料を入れたら、「〆」を入れてしっかりのり付けしてください。
 金額は裏面に書かず、中に入れるメモ用紙に記入しましょう。縦書きで、右から順に「施主」「親族」「親戚」と書いて1番左端に卒塔婆料金の金額を記します。基本的にはこの書き方ですが、厳格な決まりはありませんので、参考程度にとどめてもらえれば結構です。

塔婆料以外にかかる費用は?

 法事には卒塔婆以外にもさまざまな費用がかかります。先ほど述べた「御布施」と、「御車料」「御膳料」などです。
御車料はだいたい5,000円程度、御膳料は5,000円〜20,000円程度となります。ただし、これは会食に住職さんを招く際にかかるもので、必ずしも必要となるわけではありません。
 お布施に関しては、気持ちを示すものですので、いくらという決まりはありません。相場が分からない場合は、親戚や他家の檀家さん、あるいはお寺の世話役を務める寺総代にたずねると良いでしょう。
塔婆料といい、御布施といい、なかなか馴染みのないものですので、いざ必要となっても料金が分からず戸惑うこともあるかと思います。事前に情報を集めたければ、菩提寺に聞くのが一番です。

7.地域によって卒塔婆の大きさや形って違うの?

 一口に卒塔婆といっても、さまざまな種類があり、それによって大きさや形式も異なります。どんな卒塔婆を立てるかは地域によって違いがあるのでしょうか? 今回は、地域によって異なる卒塔婆事情について考えてみたいと思います。

卒塔婆は、地域によって異なる

 卒塔婆の習慣は、地域やその土地の風習によって大きく異なるというのが実情です。地域ごとに扱う卒塔婆も異なるため、その形や大きさも違ってくるでしょう。
 地域によっては、親戚同士で卒塔婆をやり取りする習慣もあります。また、卒塔婆を立てない地域、ほとんど義務化している地域もあり、卒塔婆の習慣はその土地の風習が大きく関わってくるといえるでしょう。

卒塔婆の種類

  卒塔婆の種類は全部で5つ。それぞれの特徴を簡単に説明しましょう。

板塔婆

厚さ1cm、長さ60〜180?くらいの卒塔婆で、主にお墓の後ろに立てます。多くの墓場で見られる卒塔婆はこの板塔婆と考えていいくらい、一般的に用いられています

角塔婆

長さ120〜210?、厚さ10cmくらいの、四角い柱型をした卒塔婆です。先端が尖っているのは、卒塔婆のルーツである五輪塔の影響でしょう。墓石ができるまでのお墓変わりの墓標として活用されるケースもあります。

七本塔婆

長さ30〜40cmくらいの板塔婆です。初七日から49日までの期間、7日ごとの法事で使われます。

経木塔婆

板塔婆より薄く、小型の卒塔婆です。川に流して供養することから水塔婆と呼ばれることも。お彼岸や施餓鬼法要などで用いられることも多いです。

梢付き塔婆

 三十三回忌や五十回忌などの弔い上げ(年忌の最後)に用いられる卒塔婆で、枝葉のついた生木をそのまま使用することから「生木塔婆」とも呼ばれます。よく用いられる木材は、杉や松、柳など。地域によっては、梢付き塔婆を普通の板塔婆で弔うところもあります。

宗派によっても大きく異なる

 卒塔婆の種類や大きさ、表面に記される梵字などは、宗派によっても違いが見られます。とくに浄土真宗では、追善供養という考えそのものが存在しないため、卒塔婆を必要としません。亡くなられた人も、現世を生きる私たちも、みな阿弥陀様の功徳の中にあるというのが浄土真宗のスタンスです。
宗派や地域によって供養のかたちが異なるといえ、根底に「やすらかに眠って欲しい」と願う気持ちはみな同じです。どんな場所で卒塔婆を立てるにしても、その気持ちを常に大切にしたいですね。

8.角塔婆の歴史

 卒塔婆を代表するタイプである角塔婆(かくとうば)。その歴史を知るには、五輪塔を詳しく理解する必要があるでしょう。五輪塔と角塔婆の関係とは何でしょうか? 今回は、この2つの関係性を明らかにすることで、角塔婆の歴史に迫ってみたいと思います。

角塔婆のルーツは五輪塔

 角塔婆は、厚さ10cm程度、長さ120〜210cm程度の卒塔婆です。これは通常の追善供養として用いられるほかに、墓石が完成するまでの墓標の代用として、あるいは寺院が新しく完成した際の落慶法要のときに立てられます。
この角塔婆はもともと、五輪塔を原型にデザインされたものです。五輪塔をモチーフに角塔婆が造形され、それがさらに簡素化されて板塔婆になったという経緯があります。

五輪塔とは?

 五輪塔は、かつて供養塔として、インドや中国、日本の有力者たちが死後の世界でも安寧を保つために競って建てたといわれます。日本においては、法隆寺や薬師寺といった供養のために建立された歴史的建築物が今でも多く存在しますが、それら三重塔や五重塔が密教の宇宙哲学の影響を受けて転化したのが五輪塔といわれます。
 密教では、「地水火風空」の5つの元素が宇宙と人間世界を構成するという考えを持っていました。「空=宝珠型」「風=半球形」「火=三角形」「水=球形」「地=方形」というふうに形をなし、そのパーツをつなぎ合わせたのが五輪塔です。
 かつて五輪塔婆そのものが故人を供養するための施設でしたが、墓石による弔い方法が主流となってからは次第に簡素化し、塔婆は追善供養として用いられる角塔婆へと変化していったのです。

追善供養という考え

 お釈迦さまを弔う菩提塔としてのスタートした卒塔婆。今では故人を弔う追善供養の意味で、墓石に添えるかたちで立てられています。仏教には、「弔う気持ちが故人への功徳となり、さらに現世での功徳となる」という考えがあります。つまり追善供養で卒塔婆を立てることは、故人を安らかな眠りに導くだけでなく、この世を生きる私たちにもプラスとなるもの。卒塔婆を立てる際は、そんな深い仏教哲学を理解しつつ、故人を弔っていきたいですね。

 

9.板塔婆と角塔婆の違い

 故人を弔うツールとして長く受け継がれてきた卒塔婆ですが、回忌や供養方法によって違う呼び方がされることをご存じでしょうか。たとえば、「板塔婆」(いたとうば)と「角塔婆」(かくとうば)。よく聞く卒塔婆の名前ですが、この2つにはどんな違いがあるのでしょか? 今回は、この両者の違いについて詳しく説明します。

板塔婆とは?

 板塔婆は厚さ1cmくらいの薄い板で作られた卒塔婆です。長さ2尺〜6尺程度、つまり60?〜180?くらいの大きさ。長さに開きがあるのは、地域の風習によって大きさが異なるためです。
 墓地や霊園に足を運ぶと、お墓の後ろにひっそりと立てられた卒塔婆を目にすると思います。これらはほとんど板塔婆といえるくらい、スタンダードに使われています。
 卒塔婆は、長い歴史の中でその意味合いや形、大きさが変遷していきました。今私たちが目にする板塔婆は、時代の要請に従い進化を遂げてきた卒塔婆の最終スタイルといっていいでしょう。

角塔婆とは?

 角塔婆の大きさは、厚さ10cm、長さ120cm〜210cmくらい、板塔婆より大きめのサイズです。角塔婆はもともと、供養塔としての意味を持った五輪塔をルーツとする卒塔婆です。角塔婆も五輪塔と同じく、空(宝珠型)、風(半球形)、火(三角形)、水(円形)、地(方形)の5つの要素から構成され、それにちなむ梵字(古来インドで仏様や菩薩様を表したとされる文字)が記されます。
 角塔婆は板塔婆より用途が広く、お墓を建てるまでの間の墓石代わりの墓標として立てられる場合があります。そのほか、日蓮聖人の法要に使われたり、寺院の新築完成を祝う落成式典のときに立てられることも多いです。

ルーツは同じ

 板塔婆と角塔婆の違いを説明してきましたが、実のところ、角塔婆がさらに簡素化・スリム化を遂げる中で板塔婆が生まれたという歴史があります。つまり、このふたつの卒塔婆は、ともに五輪塔をルーツに持ち、五大要素をもとにデザインされ、現代でも故人を弔う追善供養の役目を果たしてくれています。また、梵字や経文、戒名などを記載するスタイルも違いありません。厳密な違いといえば、大きさと用途くらい。これからも、故人を弔うアイテムとしてしっかり受け継いでいきたいですね。

10.経木塔婆とは

 私たちの家族やご先祖様を供養するために必要な卒塔婆ですが、種類によってはユニークな弔い方法をするタイプがあります。それが今回ご紹介する経木塔婆です。水に浮かべるだけで故人を弔うこの卒塔婆の意味と役割とは? 以下にご説明します。

経木塔婆とは?

 経木塔婆とは、経木とよばれる薄い木材で作られた卒塔婆です。その大きさは27?〜36?くらい、厚さがほんの1?しかしません。一般的に用いられる板塔婆の大きさが長さ1m前後、厚さ1?くらいですので、それよりはるかにミニサイズの卒塔婆であることが分かるかと思います。
地域によっては、戒名を書いたものを仏壇の前にお祀りする風習があります。経木塔婆は市販もされていて、自分で購入して戒名を書いても構わないとされています。

経木塔婆の供養方法

 経木塔婆は、そこに経文の一説や戒名などを書いて川に流すことで、故人を弔います。川に流さず、水槽につけるだけの簡素な供養方法もあります。このように、水回向として用いられることから、水塔婆ともいわれます。
寺院によっては川に流さず、経木塔婆を仏壇の前に置いて供養するところもあります。地域や宗派、寺院のしきたりにそって卒塔婆での供養を行うことになるでしょう。

一風変わった供養スタイル

 一般的に卒塔婆とは、お墓の後ろなどに立てる板塔婆が有名ですね。これは49日や七回忌、十三回忌や十七回忌といった節目節目の法要に合わせて追善供養する方法です。このスタイルから考えると、お経を書いて川に流す経木塔婆は少し変わった追善供養の方法といえるでしょう。
 日本には昔から、お盆のお供え物を海や川に流す灯籠流しとよばれる鎮魂の儀式があります。経木塔婆と灯籠流しに密接な関係があるのかどうか分かりませんが、仏教とは関係のない民間供養にも、水を使っての弔い方法があるとは大変興味深いですよね。卒塔婆にしろ灯籠流しにしろ、昔から受け継がれてきた供養のスタイルにはそれなりに意味があることなので、今後もしっかりと受け継いでいきたいですね。

11.日の出町の卒塔婆づくりの現況

 卒塔婆は、昔は各地方で作られていましたが、良い材料が入らなくなったり、値段が高くなったり、急な場合に間に合わなかったりして次第に作られなくなり、今は東京都西多摩郡日の出町で全国の60〜70%が作られています。日の出町では卒塔婆を作っている人たちのことを「卒塔婆屋さん」と呼んでおり、当サイト名「卒塔婆屋さん」もここに由来しています。「卒塔婆屋さん」の運営母体である有限会社谷治新太郎商店もこの日の出町で明治十五年、谷治新太郎によって卒塔婆製造業として創業されました。
 現在卒塔婆製造業を取り巻く環境は厳しく、檀家の寺離れ、核家族による卒塔婆供養文化の伝承がなされていないといったことが原因と考えられます。しかしながら、丁寧に卒塔婆供養文化の背景や意味合いを説明すれば、若い人であっても興味を持ち、現に弊社にもSNSやサイト見た若者から話を聞きたい、工場を見学したいという依頼が多くあります。
 また、最近では日本の伝統文化や職人技にスポットをあてたTV番組が人気であり、東京オリンピックへ向けても原点回帰の機運が高まっています。
インターネットやSNSといった現代の技術を使って伝統文化や技術を紹介して行く。既存のものを新しいものと融合してイノベーションを起こすことが、重要ではないでしょうか。

日の出町の概略

 東京都では、南多摩郡、北多摩群が全域市制を敷いたので、郡制は消滅し、瑞穂、奥多摩、日の出町の3町と檜原村1村がある西多摩郡のみが、群制を残しています。日の出町は現在人口17,317人(2018年4月1日現在)面積28.07平方キロメートル、町の木はモミ(卒塔婆の材料にも使われた)、町の花はフジ、サクラ、町の鳥はウグイスです。
 昭和36年6月1日、平井、大久野の二村を合併して出来た日の出村は、北方にそびえる日の出山(海抜902m)から名前を取りました。昭和49年日の出町となりました。日の出山の名前は日の出山が御嶽山(海抜920m)の東にあり、御嶽山から日の出を拝む方向にあることから名づけられたようです。
現在は関東から各地域へ伸びる主要高速道路(常磐道・東北道、関越道、東名)を結ぶ圏央道のインターを要し、これによりインター近くには三吉野工業団地が出来き、有名企業の工場も存在します。工業団地の西側にはイオンモールも進出し週末は近隣の市町村からも多数の集客に成功しています。
また、弊社のある大久野地域にはつるつる温泉という天然温泉があり、そこへ向かう青春号という機関車を模したトレーラーバスが走っており、人気を博していて、こちらも週末ともなれば近県を中心に多くのハイカーやツーリングのお客様でにぎわいます。
 自然も豊かで、春には町民グランドや町を南北に流れる平井川沿いの桜が有名で、梅雨時期には平井川に天然のホタルが飛び交い(弊社工場からも見えます。ホタルを見に来た人には駐車場も無料開放しております。)夏にはバーベキューをする家族連れも沢山訪れます。
老人福祉、子供の子育ても全国でトップクラスとなっています。これでいて都心へは1時間程度で行けてしまうこともあり、子育て世代を中心に越してくる人も近年少なくありません。

 昭和58年11月11日、中曽根元首相とレーガン米大統領のロン・ヤス会談が日の出山荘で行われ、日の出町は一躍全国にその存在を知られました。最近では鎌倉の大仏よりも大きい鹿野大仏が完成し、マスコミでも話題となり観光資源として今後ますます期待がされております。
 町の大部分を山間部が占めており、耕地は少なく、産業は林業・木工業・酪農・観光とコンクリート工業です。コンクリートは太平洋セメントの採石場が弊社の前を流れる平井川の反対側にあります。農業ではトマトが有名であり、このトマトを用いたB級グルメ赤いうどんがあります。
 日の出町の中でも、大久野は平井より山が多く、山林で生計を立てる人が多く、日の出町に卒塔婆を作ることが盛んになった理由は、卒塔婆に適したもみの木が多かったことと、大消費地江戸に近かったので、運搬などの日数、費用がかからなかったことなどが挙げられます。現在は日の出町には電車(汽車)は走っていませんが、昔は機関車が走っていて、物流を担っていました。

圏央道▲圏央道日の出インター付近

桜並木
▲桜並木

平井川▲平井川で釣りを楽しむ家族連れ

紅葉
▲平井川沿いの紅葉

クリスマス▲クリスマスイルミネーション

日の出山▲日の出山からのご来光

どんと焼き▲どんと焼き

日の出山荘▲日の出山荘
 

日の出町の卒塔婆作りの歴史

 元禄(1688〜1703年)のころ、日の出町大久野の羽生というところの名手をしていた文右衛門と、農業と山仕事の取締をしていた惣兵衛の二人は、そのころ盛んになってきたお伊勢参りに出かけた。無事お伊勢参りを終えた二人は東海道を遠州浜松近くまで来たところ、道端に托鉢の坊さんが苦しんでいるのを見て、信仰も深く人情のある二人は見捨てておけないで、文右衛門がとりあえず持参の薬を坊さんに与えると、少し楽になった坊さんが「私のお寺へお泊り下さい」と言うので、言葉に甘えて、お邪魔することにした。惣兵衛が坊さんを背負って寺まで行くと、細長い板を束ねた馬がちょうど寺より出てくるのに出くわした。何に使うものかと思ってたずねると、「大工に作らせた卒塔婆をこれから他の寺へ運んでいくところだ」と言い、「お二人の故里の武州の山にも、もみの木がたくさんあるだろうから、家へ帰られたら、作って江戸へ売り出せば必ず売れるでしょう」と作り方など教えてくれた。帰りの道々、二人は相談して、山から切り出すのは、惣兵衛がお手のものだから引受け、卒塔婆作りと販売は文右衛門がやることにした。帰郷して早速実行したところ、売れ行きがよく、だんだんと集落の人たちも見習ってやる人が増えていって、日本中の寺院からも注文が集まるようになった。(日の出町文化財保護委員会遍『日の出町の昔ばなし』)。
 日の出町羽生から五日市横沢にまたがる横沢層は伊奈石の産地で、鎌倉末期より室町末期にかけて、盛んに石塔婆(板碑)が作られていました。そのころの武蔵には武蔵七党、南一揆などの地侍が居て、仏教信仰が盛んで青石塔婆や五輪塔を作っていた。板塔婆の方は当然、それ以前から作られていたであろう。
 鹿ヶ谷の平家討伐の密謀がバレて、俊寛、藤原成経、平康頼の三人は安元三(1177)年鬼界ヶ島に流されたが、平康頼は島に流されている間、千本板塔婆を作って、海に流して、ひたすら許しの日を待った。

平家物語、巻第二 “卒都婆流”(そとばながし)
さてこの二人、普段は三所権現の御前で夜を徹して祈願することもあった

`ある夜、通夜をして、一晩中今様などを歌っていたが、明け方、苦しさから少しまどろんで見た夢の中で、白い帆を掛けた舟が一艘、沖から波打ち際に向かって漕ぎ寄せて来ると、紅の袴を着た女房たちが二・三十人、渚へ上がり、鼓を打ち、声を調えて

`あらゆる仏の願よりも、千手観音の誓願の方が頼もしい

`枯れた草木もたちまちに、花咲き実が生ると聞いている

`と繰り返し繰り返し、三度歌うとかき消すようにいなくなった

`康頼入道は目覚めると不思議な気持ちになり、こう思った

`あれはきっと龍神の化身に違いない

`熊野三所権現の西の御前本来のお姿は千手観音であられる

`龍神は千手観音二十八部衆の一柱だから、きっと願を聞き届けてくださるに違いない

`ある夜、また二人で通夜をし、同じようにまどろんでいると、沖からの風が、二人の袂に木の葉を二枚吹きかけた

`それをなんとなく手に取ってみると、熊野三所権現のなぎの葉であった

`二枚のなぎの葉には、虫食いによって一首の歌が詠まれていた

`ちはやぶる神に何度も祈るから、都へ帰れぬことはないはず

`康頼入道は故郷の恋しさのあまりに、精一杯の手段と思ってか、千本の卒都婆を作り、阿字の梵字、年号月日、仮名、実名、そして二首の歌を書きつけた

`薩摩潟、沖の小島に私はいると、親に伝えよ八重の潮風

`想像してほしい、ほんのしばしの旅ですら、故郷は恋しいことを

`これを浦に持って出ると

`南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、宮中の鎮守諸大明神、とりわけ熊野権現、安芸厳島の大明神、せめて一本だけでも都へ伝えてください

`と祈りながら、沖の白波が寄せては返すたび、卒都婆を海に浮かべた

`卒都婆は作るとすぐに海に浮かべたので、日数が経るにつれて卒都婆の数も増していった

`その思う心が便りの風となったのか、それとも神明・仏陀が送られたのか、千本中の一本が安芸国厳島大明神の前の渚に流れ着いた

`この地には康頼入道と縁のある僧がいて、機会があったら鬼界が島に渡って康頼殿を探そうと西国へ修行に出て、まず厳島を詣でていたのだった

`そこに、神官と思しい狩衣装束の俗人が一人現れた

`この僧は雑談の中で

`衆生を救うの方法はさまざまであるとは言いますが、この神様はどのような因縁で大海の魚に縁を結ばれたのでしょうか

`と尋ねると

`これは、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界の大日如来が化身となって現れたのだ

`この島に化身となって現れた当初から衆生を救う現在に至るまでの不思議な霊験の数々を語った

`それゆえか、厳島の御殿は八社が屋根を並べ、社は海神のそばに建ち、潮の満ち干に月がすむ

`潮が満ちれば、大鳥居や緋色の垣根は瑠璃のように見える

`潮が引けば、夏の夜でも御前の白洲に霜が降りる

`僧はますます尊く思えてその場にいたが、しだいに日も暮れ、月が昇って、潮が満ちてくると、なにやら波に揺られて流れてくる藻屑の中に卒都婆が見えたので、なんとなく拾ってみると

`沖の小島に私はいる

`と、書いて流された言葉であった

`文字は彫り刻まれていたので、波にも洗われることなく、くっきりと見てとれた

`僧は不思議に思い、笈の肩に挿して都へ帰り、康頼殿の老母の尼君や妻子たちが一条の北や紫野というところにひっそりと住んでいたので、訪ねてそれを見せたところ

`どうして、この卒都婆が唐土の方へ流れ去ることなく、いまさらここへ知らせに来て、悩ましい思いをさせるのでしょう

`と悲しんだ
`その話は後白河法皇の耳まで届き、卒塔婆をご覧になると

`なんとかわいそうに、この者たちはまだ生きているのだ

`とありがたくも涙を流された

`これを重盛殿に届けると、父の清盛入道に見せられた

`柿本人麻呂は、島影に隠れて行く舟を偲び、山辺赤人は芦辺の鶴を眺め、住吉明神は寒い夜に千木のことを思い、三輪明神は目印の杉が立つ門を指し、おのおの歌に詠んだ

`昔、素戔嗚尊が三十一字の大和歌をお詠みになって以来、多くの神明・仏陀も、歌でさまざまな思いを述べられた

`清盛入道も岩や木ではないので、なんとも哀れなふうに言われた
(日本文学摘集 平家物語現代語訳より)
 

 その康頼、成経を迎えにいった丹基康は荒川流域の豪族武蔵七党の一つである。武蔵七党には丹基康以外にも熊谷直実とか仏教信仰者が多かったが、丹基康などは平康頼らの影響もあったのではないかと言う人がいます。だから、武蔵国の多摩で卒塔婆作りが盛んになったのも、そのような素地があったのではないかと思われます。
 卒塔婆は先ほど記述した文右衛門の話以前から作っていた可能性が高く、しかしながら、それは付近の需要を満たす程度で、生業にはなっていなかったのではないでしょうか。
 現在の様に機械化がされる前は職人さんは「けずり職人」と呼ばれ、のこぎり、のみ、かんなで手作りしていました。弊社は工場と母屋が同じ敷地にあり、母屋の屋根裏で昔は職人さんが一枚一枚卒塔婆を手作りしていました。今でもその痕跡は確認できます。
 当初、卒塔婆の製造は副業でやっていたところも多く、弊社も昭和初期のころまでは林業や養蚕を並行して行っていたといったとのことです。

卒塔婆干し▲卒塔婆に使う山板を天日干し(弊社昭和40年頃)

昔の塔婆▲大正11年の見本(弊社蔵)

卒塔婆ともみの木

 卒塔婆にもみの木が使われるようになったのは、板にすると表面が真白くてきれいで、墨で書いてもにじまなく、吸い込みも良いので速乾性に優れていたためです。しかし、もみの木は柔らかくて軽く、割れや狂いも生じやすく建材には向きませんでした。もみの木と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、クリスマスツリーではないでしょうか。実際もみの若木はクリスマスツリーによく使われています。しかし、もみの木は日本の特産で、裸子植物のマツ科モミ属、常緑の針葉高木で直幹性です。直径は5m、樹高は50mにもなります。葉は針状にとがり、密に互生して、先端は二又になっています。樹齢は150年から250年です。日本の北から南まで多く生えており、日の出町は特に多くのもみの木が生えていました。
 もみの古名は、もむの木、臣の木と呼ばれ、万葉集に「み湯の上の樹郡を見れば臣の木も生ひ継ぎにけり・・・・」とあり、縁起の良い木とされ、神事にもよく使用されています。長野県の諏訪大社の「御柱」と呼ばれる祭りは、七年ごとにもみの大木が八ヶ岳の麓より伐採され、諏訪湖の南と北にある上社、下社に運ばれて、社殿の四隅に立てられることで知られています。
 島根県の北東端の関の五本松で有名な美保関町の古事記の国護り神話に由来する諸手船の神事で使われる、古代のくり舟も、もみの木で作られて、今に引き継がれています。
 もみは真白くて清浄感があり、洋の東西、神仏の別を問わず使用されています。
 日の出町のもみはかつて、海抜300mから900mの丘陵帯に生えており、植物生態の極性相(フローラ)がもみの林で安定層となって自然に循環していました。もみの木は日陰でも良く自生しています。地層は石灰岩質が多いところが良いらしく、日の出町、青梅の成木、飯能などに生えていて、そのような地域に卒塔婆屋が多くあります。高尾山のもみの木は赤く卒塔婆には向きません。
 もみの木が卒塔婆の材料に適した大きさになるまでには、100年近くを様し、日の出町のもみの木は伐採した後は杉に置き換えられ、現在はほとんどありません。しばらくは、東北地方のもみの木を使っていましたが、こちらも少なくなると、中国、アメリカ、カナダ、ドイツなどからの輸入が主だったものになりました。弊社でも現在は輸入材で卒塔婆を製造しております。



参考文献
下島 彬(1990)「多摩の伝統技芸・2」
 

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