卒塔婆の材料の天日干し

卒塔婆と日の出町の関係

卒塔婆は、昔は各地方で作られていましたが、良い材料が入らなくなったり、値段が高くなったり、急な場合に間に合わなかったりして次第に作られなくなり、今は東京都西多摩郡日の出町で全国の60~70%が作られています。

日の出町では卒塔婆を作っている人たちのことを「卒塔婆屋さん」と呼んでおり、当サイト名「卒塔婆屋さん」もここに由来しています。「卒塔婆屋さん」の運営母体である有限会社谷治新太郎商店もこの日の出町で明治十五年、谷治新太郎によって卒塔婆製造業として創業されました。

現在卒塔婆製造業を取り巻く環境は厳しく、檀家の寺離れ、核家族による卒塔婆供養文化の伝承がなされていないといったことが原因と考えられます。しかしながら、丁寧に卒塔婆供養文化の背景や意味合いを説明すれば、若い人であっても興味を持ち、現に弊社にもSNSやサイト見た若者から話を聞きたい、工場を見学したいという依頼が多くあります。

また、最近では日本の伝統文化や職人技にスポットをあてたTV番組が人気であり、東京オリンピックへ向けても原点回帰の機運が高まっています。

インターネットやSNSといった現代の技術を使って伝統文化や技術を紹介して行く。既存のものを新しいものと融合してイノベーションを起こすことが、重要ではないでしょうか。

日の出町の概略

東京都では、南多摩郡、北多摩群が全域市制を敷いたので、郡制は消滅し、瑞穂、奥多摩、日の出町の3町と檜原村1村がある西多摩郡のみが、群制を残しています。日の出町は現在人口17,317人(2018年4月1日現在)面積28.07平方キロメートル、町の木はモミ(卒塔婆の材料にも使われた)、町の花はフジ、サクラ、町の鳥はウグイスです。

昭和36年6月1日、平井、大久野の二村を合併して出来た日の出村は、北方にそびえる日の出山(海抜902m)から名前を取りました。昭和49年日の出町となりました。日の出山の名前は日の出山が御嶽山(海抜920m)の東にあり、御嶽山から日の出を拝む方向にあることから名づけられたようです。

現在は関東から各地域へ伸びる主要高速道路(常磐道・東北道、関越道、東名)を結ぶ圏央道のインターを要し、これによりインター近くには三吉野工業団地が出来き、有名企業の工場も存在します。工業団地の西側にはイオンモールも進出し週末は近隣の市町村からも多数の集客に成功しています。

また、弊社のある大久野地域にはつるつる温泉という天然温泉があり、そこへ向かう青春号という機関車を模したトレーラーバスが走っており、人気を博していて、こちらも週末ともなれば近県を中心に多くのハイカーやツーリングのお客様でにぎわいます。

自然も豊かで、春には町民グランドや町を南北に流れる平井川沿いの桜が有名で、梅雨時期には平井川に天然のホタルが飛び交い(弊社工場からも見えます。ホタルを見に来た人には駐車場も無料開放しております。)夏にはバーベキューをする家族連れも沢山訪れます。

老人福祉、子供の子育ても全国でトップクラスとなっています。これでいて都心へは1時間程度で行けてしまうこともあり、子育て世代を中心に越してくる人も近年少なくありません。

昭和58年11月11日、中曽根元首相とレーガン米大統領のロン・ヤス会談が日の出山荘で行われ、日の出町は一躍全国にその存在を知られました。最近では鎌倉の大仏よりも大きい鹿野大仏が完成し、マスコミでも話題となり観光資源として今後ますます期待がされております。

町の大部分を山間部が占めており、耕地は少なく、産業は林業・木工業・酪農・観光とコンクリート工業です。コンクリートは太平洋セメントの採石場が弊社の前を流れる平井川の反対側にあります。農業ではトマトが有名であり、このトマトを用いたB級グルメ赤いうどんがあります。

日の出町の中でも、大久野は平井より山が多く、山林で生計を立てる人が多く、日の出町に卒塔婆を作ることが盛んになった理由は、卒塔婆に適したもみの木が多かったことと、大消費地江戸に近かったので、運搬などの日数、費用がかからなかったことなどが挙げられます。

現在は日の出町には電車(汽車)は走っていませんが、昔は機関車が走っていて、物流を担っていました。

圏央道日の出インター付近
圏央道日の出インター付近
 桜並木
桜並木
平井川沿いの紅葉
平井川沿いの紅葉
クリスマスイルミネーション
クリスマスイルミネーション
日の出山からのご来光
日の出山からのご来光
どんと焼き
どんと焼き
日の出山荘
日の出山荘

日の出町の卒塔婆作りの歴史

元禄(1688~1703年)のころ、日の出町大久野の羽生というところの名手をしていた文右衛門と、農業と山仕事の取締をしていた惣兵衛の二人は、そのころ盛んになってきたお伊勢参りに出かけた。

無事お伊勢参りを終えた二人は東海道を遠州浜松近くまで来たところ、道端に托鉢の坊さんが苦しんでいるのを見て、信仰も深く人情のある二人は見捨てておけないで、文右衛門がとりあえず持参の薬を坊さんに与えると、少し楽になった坊さんが「私のお寺へお泊り下さい」と言うので、言葉に甘えて、お邪魔することにした。

惣兵衛が坊さんを背負って寺まで行くと、細長い板を束ねた馬がちょうど寺より出てくるのに出くわした。何に使うものかと思ってたずねると、「大工に作らせた卒塔婆をこれから他の寺へ運んでいくところだ」と言い、「お二人の故里の武州の山にも、もみの木がたくさんあるだろうから、家へ帰られたら、作って江戸へ売り出せば必ず売れるでしょう」と作り方など教えてくれた。

帰りの道々、二人は相談して、山から切り出すのは、惣兵衛がお手のものだから引受け、卒塔婆作りと販売は文右衛門がやることにした。帰郷して早速実行したところ、売れ行きがよく、だんだんと集落の人たちも見習ってやる人が増えていって、日本中の寺院からも注文が集まるようになった。(日の出町文化財保護委員会遍『日の出町の昔ばなし』)。

日の出町羽生から五日市横沢にまたがる横沢層は伊奈石の産地で、鎌倉末期より室町末期にかけて、盛んに石塔婆(板碑)が作られていました。そのころの武蔵には武蔵七党、南一揆などの地侍が居て、仏教信仰が盛んで青石塔婆や五輪塔を作っていた。板塔婆の方は当然、それ以前から作られていたであろう。

鹿ヶ谷の平家討伐の密謀がバレて、俊寛、藤原成経、平康頼の三人は安元三(1177)年鬼界ヶ島に流されたが、平康頼は島に流されている間、千本板塔婆を作って、海に流して、ひたすら許しの日を待った。 平家物語、巻第二 “卒都婆流”(そとばながし)

さてこの二人、普段は三所権現の御前で夜を徹して祈願することもあった

`ある夜、通夜をして、一晩中今様などを歌っていたが、明け方、苦しさから少しまどろんで見た夢の中で、白い帆を掛けた舟が一艘、沖から波打ち際に向かって漕ぎ寄せて来ると、紅の袴を着た女房たちが二・三十人、渚へ上がり、鼓を打ち、声を調えて

`あらゆる仏の願よりも、千手観音の誓願の方が頼もしい

`枯れた草木もたちまちに、花咲き実が生ると聞いている

`と繰り返し繰り返し、三度歌うとかき消すようにいなくなった

`康頼入道は目覚めると不思議な気持ちになり、こう思った

`あれはきっと龍神の化身に違いない

`熊野三所権現の西の御前本来のお姿は千手観音であられる

`龍神は千手観音二十八部衆の一柱だから、きっと願を聞き届けてくださるに違いない

`ある夜、また二人で通夜をし、同じようにまどろんでいると、沖からの風が、二人の袂に木の葉を二枚吹きかけた

`それをなんとなく手に取ってみると、熊野三所権現のなぎの葉であった

`二枚のなぎの葉には、虫食いによって一首の歌が詠まれていた

`ちはやぶる神に何度も祈るから、都へ帰れぬことはないはず

`康頼入道は故郷の恋しさのあまりに、精一杯の手段と思ってか、千本の卒都婆を作り、阿字の梵字、年号月日、仮名、実名、そして二首の歌を書きつけた

`薩摩潟、沖の小島に私はいると、親に伝えよ八重の潮風

`想像してほしい、ほんのしばしの旅ですら、故郷は恋しいことを

`これを浦に持って出ると

`南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、宮中の鎮守諸大明神、とりわけ熊野権現、安芸厳島の大明神、せめて一本だけでも都へ伝えてください

`と祈りながら、沖の白波が寄せては返すたび、卒都婆を海に浮かべた

`卒都婆は作るとすぐに海に浮かべたので、日数が経るにつれて卒都婆の数も増していった

`その思う心が便りの風となったのか、それとも神明・仏陀が送られたのか、千本中の一本が安芸国厳島大明神の前の渚に流れ着いた

`この地には康頼入道と縁のある僧がいて、機会があったら鬼界が島に渡って康頼殿を探そうと西国へ修行に出て、まず厳島を詣でていたのだった

`そこに、神官と思しい狩衣装束の俗人が一人現れた

`この僧は雑談の中で

`衆生を救うの方法はさまざまであるとは言いますが、この神様はどのような因縁で大海の魚に縁を結ばれたのでしょうか

`と尋ねると

`これは、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界の大日如来が化身となって現れたのだ

`この島に化身となって現れた当初から衆生を救う現在に至るまでの不思議な霊験の数々を語った

`それゆえか、厳島の御殿は八社が屋根を並べ、社は海神のそばに建ち、潮の満ち干に月がすむ

`潮が満ちれば、大鳥居や緋色の垣根は瑠璃のように見える

`潮が引けば、夏の夜でも御前の白洲に霜が降りる

`僧はますます尊く思えてその場にいたが、しだいに日も暮れ、月が昇って、潮が満ちてくると、なにやら波に揺られて流れてくる藻屑の中に卒都婆が見えたので、なんとなく拾ってみると

`沖の小島に私はいる

`と、書いて流された言葉であった

`文字は彫り刻まれていたので、波にも洗われることなく、くっきりと見てとれた

`僧は不思議に思い、笈の肩に挿して都へ帰り、康頼殿の老母の尼君や妻子たちが一条の北や紫野というところにひっそりと住んでいたので、訪ねてそれを見せたところ

`どうして、この卒都婆が唐土の方へ流れ去ることなく、いまさらここへ知らせに来て、悩ましい思いをさせるのでしょう

`と悲しんだ
`その話は後白河法皇の耳まで届き、卒塔婆をご覧になると

`なんとかわいそうに、この者たちはまだ生きているのだ

`とありがたくも涙を流された

`これを重盛殿に届けると、父の清盛入道に見せられた

`柿本人麻呂は、島影に隠れて行く舟を偲び、山辺赤人は芦辺の鶴を眺め、住吉明神は寒い夜に千木のことを思い、三輪明神は目印の杉が立つ門を指し、おのおの歌に詠んだ

`昔、素戔嗚尊が三十一字の大和歌をお詠みになって以来、多くの神明・仏陀も、歌でさまざまな思いを述べられた

`清盛入道も岩や木ではないので、なんとも哀れなふうに言われた
(日本文学摘集 平家物語現代語訳より) その康頼、成経を迎えにいった丹基康は荒川流域の豪族武蔵七党の一つである。武蔵七党には丹基康以外にも熊谷直実とか仏教信仰者が多かったが、丹基康などは平康頼らの影響もあったのではないかと言う人がいます。

だから、武蔵国の多摩で卒塔婆作りが盛んになったのも、そのような素地があったのではないかと思われます。

卒塔婆は先ほど記述した文右衛門の話以前から作っていた可能性が高く、しかしながら、それは付近の需要を満たす程度で、生業にはなっていなかったのではないでしょうか。

現在の様に機械化がされる前は職人さんは「けずり職人」と呼ばれ、のこぎり、のみ、かんなで手作りしていました。弊社は工場と母屋が同じ敷地にあり、母屋の屋根裏で昔は職人さんが一枚一枚卒塔婆を手作りしていました。今でもその痕跡は確認できます。

当初、卒塔婆の製造は副業でやっていたところも多く、弊社も昭和初期のころまでは林業や養蚕を並行して行っていたといったとのことです。

卒塔婆に使う山板を天日干し(弊社昭和40年頃)
卒塔婆に使う山板を天日干し(弊社昭和40年頃)
大正11年の見本(弊社蔵)
大正11年の見本(弊社蔵)

卒塔婆ともみの木

卒塔婆にもみの木が使われるようになったのは、板にすると表面が真白くてきれいで、墨で書いてもにじまなく、吸い込みも良いので速乾性に優れていたためです。

しかし、もみの木は柔らかくて軽く、割れや狂いも生じやすく建材には向きませんでした。もみの木と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、クリスマスツリーではないでしょうか。実際もみの若木はクリスマスツリーによく使われています。

しかし、もみの木は日本の特産で、裸子植物のマツ科モミ属、常緑の針葉高木で直幹性です。直径は5m、樹高は50mにもなります。葉は針状にとがり、密に互生して、先端は二又になっています。樹齢は150年から250年です。日本の北から南まで多く生えており、日の出町は特に多くのもみの木が生えていました。

もみの古名は、もむの木、臣の木と呼ばれ、万葉集に「み湯の上の樹郡を見れば臣の木も生ひ継ぎにけり・・・・」とあり、縁起の良い木とされ、神事にもよく使用されています。

長野県の諏訪大社の「御柱」と呼ばれる祭りは、七年ごとにもみの大木が八ヶ岳の麓より伐採され、諏訪湖の南と北にある上社、下社に運ばれて、社殿の四隅に立てられることで知られています。

島根県の北東端の関の五本松で有名な美保関町の古事記の国護り神話に由来する諸手船の神事で使われる、古代のくり舟も、もみの木で作られて、今に引き継がれています。

もみは真白くて清浄感があり、洋の東西、神仏の別を問わず使用されています。

日の出町のもみはかつて、海抜300mから900mの丘陵帯に生えており、植物生態の極性相(フローラ)がもみの林で安定層となって自然に循環していました。もみの木は日陰でも良く自生しています。地層は石灰岩質が多いところが良いらしく、日の出町、青梅の成木、飯能などに生えていて、そのような地域に卒塔婆屋が多くあります。高尾山のもみの木は赤く卒塔婆には向きません。

もみの木が卒塔婆の材料に適した大きさになるまでには、100年近くを様し、日の出町のもみの木は伐採した後は杉に置き換えられ、現在はほとんどありません。しばらくは、東北地方のもみの木を使っていましたが、こちらも少なくなると、中国、アメリカ、カナダ、ドイツなどからの輸入が主だったものになりました。弊社でも現在は輸入材で卒塔婆を製造しております。

樅の木
樅の木

参考文献
下島 彬(1990)「多摩の伝統技芸・2」


この記事を書いた人

Daisuke Yaji

「卒塔婆屋さん」代表

プロフィール

1999年3月  筑波大学第一学群自然学類数学科卒業
1999年4月  株式会社セブン&アイHD入社
2011年10月 株式会社セブン&アイHD退社
2011年11月 有限会社谷治新太郎商店入社
2012年12月 有限会社谷治新太郎商店代表取締役就任
2019年    カラーミーショップ大賞2019にて地域賞(東京都)
2020年    カラーミーショップ大賞2020にて優秀賞
義父・義母・義妹・妻・長男・長女・次女・猫3匹の大所帯
最近NVANを5年リースで手に入れたのでソロキャンプや車中泊に挑戦したい

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